1/15 古典は本当に必要なのか(前) / 『永遠の詩2 茨木のり子』感想

ごはん

朝食 パスタ

昼食 チキンライス

夕食 ハンバーグ弁当、天ぷら、本麒麟

 

どろろの2話観ながらパスタ食べた。

そっちの方がどろろって名前なのか、ゼルダの伝説みたいだ。

 

 読んだ

xiao-2.hatenablog.com

 面白い。シンポジウムの文字起こしなので長文だが面白く読み応えがある。

古典いらない派2人 vs. 古典必要派2人 という構成だが、読んでて不要派のほうがもっともらしく聞こえる。理系だからかもしれないが。

特に、前田賢一さんの主張が納得のいくものばかりだった。

  1. 古典は教養とよく聞くが、教養としてのモノ(美術音楽量子力学などなど)はたくさんある。それは自ら選び取っていくものであり強いられるものではない。高校生の限られた時間を古文漢文に本当に時間を使っていいのか。
  2. 国語にはリテラシーと芸術の側面がある。正しい日本語の読み書き理解は、まだ不十分という説もあるなか、リテラシーの分が不足しているところで、芸術としての国語ばかりが重視されている。文学、芸術としての国語。多くの古文漢文はこれに含まれる。

適当な抜粋と要約。

 

一方で古典必要派の主張だが、なんというか主観的と言うか、感情論に近い。

 

  1. 良い仕事をするために古典は不可欠。
  2. 1つは指導力。人を指導するには情理を尽くすことが求められる。これがないと人を教え導けない。試験で見られるのは能力だけ、真価はないと学生によく言う。真価を問われるのは人を教え導く時。情理を尽くす、その時に必要なのが古典。ここで古典といっているのは。第二次世界大戦ぐらいまでの小説を含めた古典作品。古典を学ぶことが情理を尽くすこと。
  3. 2つ目には、良い仕事には優れた着想がかならず必要ということ。知恵を出すにはどうやって出すか。心の中にもやもやした状態が現れる、それが大事。それが整理されるときにアイディアが生まれる。心が複雑になって錯綜した状態を母体に生まれる。和歌というのはそのもやもやの作り方がうまい。着想の立て方。古典とはそういう知恵を与えるもの。
  4. 心をいったん自分から切り離すということ。悩むのは、自分の心が自分のものであると思っているから。心を自分から切り離す術、これも幸せに生きていく上では必要なもの。その意味でも古典は学びがいがある。

それって別に古典じゃなくてもよくない?

百歩譲って古典を学ぶことが情理を尽くすということに役立つかもしれないけど、情理を尽くすということには古典が必要と言うのはそれは傲慢でしょ。もやもやの作り方、着想の立て方も同様。そういった個人的な人生観は反証可能性がないから建設的じゃないと思う。

 

福田安典さんの主張もよくわからなかった。

  1. 江戸時代の医学書農学書を読むためには漢文が読める必要があり、書誌学の知識トレーニングが必要。今の時代、どこの学部ならこの学習内容を保証してくれるか?崩し字で書かれたものも翻刻されていない者が多い。発信していくことが義務だとしたら、この字を読むトレーニングさせてくれるところが必要。誰かがその力を身に着けるには、高校までの古文や漢文を含んだ国語科の学習内容が必要。誰が天命(日本人が自国の文化を知ることができるように発信していくこと)に目覚めるか分からない、それまでは必要。
  2. サンフランシスコ条約から50年が立ったとき、フィリピンで責任と賠償を求めるデモがあった。デモがあった時、フィリピンでは日本の伝統芸能をもう一度学ぼうとする動きが起きた。これにより反対勢力も少し矛先が収まり、結果として、フィリピンにおける反日デモは縮小された。日本の国際関係をつないだのは日本の古典芸能だった。

じゃあ古典を選択制にしてもいいよね。美術、音楽、古典的な感じで。

というか自著について語りたいだけなのでは? フィリピンの話は「高校生に古典教育は必要か?」という論点からズレていないか? という印象。

 

というか「古典は本当に必要なのか」というより人によって「高校生に古典教育は必要か?」「高校生の授業カリキュラムに古典は必須か? 選択制では駄目なのか?」「義務教育に古典教育は必要か?」など論題が異なりすぎる、前提条件も話す人によってまちまちで議論に成っていない印象。

高校生の授業カリキュラムが切羽詰まってるから優先順位の低い古典が削られていっているという前提条件で「古典は本当に必要なのか」という論題ではないのか。

そもそも古典の定義はなんなんだ。小学生の算数だって古典だぞ。グループディスカッションで最初に言葉の定義をしっかり固めないと議論がブレる、と就活で習ったぞ。

 

まだ前編なのでこれから古典必要派が自分が納得できる反論があるかもしれないのでそちらに期待したい。

 

本読んだ4

永遠の詩 (全8巻)2 茨木のり子

永遠の詩 (全8巻)2 茨木のり子

 

 4冊目。詩なのでめっちゃ早く読めた。

詩ってぶっちゃけなにがいいのか分からん。

やっぱりI was born なんだね、とか言われても困る

結構前にTwitterで見た詩が好きだった。↓

『自分の感受性くらい』

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 この作者が書いた他の詩ならなんか良さが分かるかな? と思い、あとセールしていたので買った。

 

結果読んだけどよくわからなかった。やっぱ感受性だめだわ俺。ばかものです。

 

 

好きになったの以下2つ

『さゆ』

薬局へ
―サユをください
と買いにきた若い女がいた
  ―サユ
  ―ええ 子供に薬をのませるサユっていうもの おいくら?
薬局は驚いて
  ―ああた 白湯は買うもんじゃありませんよ
   湯ざましのことです

若い母親の頭のなかでサユはいったいどんな形であったやら
怪訝な顔で去ったという
白湯ももはや遠ざかりゆく日本語なのか......

そんな話をきいた日の深夜
しゅんしゅんと湯を沸かし
ふきながらゆっくりと飲む
まじりけなしの
白湯の
ただそれだけの深い味わい

 

俺も白湯のことをなんか片栗粉だか重曹みたいなものをお湯に溶かしたものだと思っていた時期があった。同じような勘違いをしていたので印象深い。

白湯美味しいよね。

電気ケトル全盛期のこの時期に南部鉄器のやかんを使っている。

使ったあとにすべての水を捨てて空にしないと錆びるとか、ケトルに比べて沸かすのに時間がかかるなどのデメリットがあるけど、白湯が美味しいので許される。それにケトルと比べて清潔だし。

たぶん一人暮らしはじめてもケトル買わずに南部鉄器使うと思う。

詩と関係ないな

 

『歳月』
真実を見極めるのに
二十五ねんという歳月は短かったでしょうか
九十歳のあなたを想定してみる
八十歳の私を想定してみる
どちらかがぼけて
どちらかが疲れはて
あるいは二人ともそうなって
わけもわからず憎みあっている姿が
ちらっとよぎる
あるいはまた
ふんわりとした翁と媼となって
もう行きましょう と
互いに首を絞めようとして
その力さえなく尻餅なんかついている姿
けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの

最後の5行が好き。


深夜高速 / フラワーカンパニーズ

この曲を思い出した。新宿のゴールデン街のバーで一夜を明かしたとき、姉御肌なお姉さんに教えてもらった曲。

良い曲だから聴いてほしい。

 

あとは中島らもが似たようなことを言っていたのをTwitterで見た気がする

たぶんコレ。

『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』という作品からの引用らしい。いつか読みたい。

まぁ「生きていてよかったそんな夜」はいまのところないけど。どこにあんの。